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佐野元春「ジュジュ・佐野の音楽の本質①」

佐野の音楽の本質とは、何だろうか。 そのエッセンスを拾いだしてみると、次のように言えるだろう。 街のどこかで、世界の変化にとまどい、傷つき、あるいはそれに抗おうとする魂に、呼びかける音楽である。そして、呼びかけた魂に、寄り添い、励まし、つながろうとする音楽である。 それは、いわば世界の周縁にあり、世界のほころびを感ずる人々に対して −−ラジオの波長を合わせるように−− 届く音楽なのである。 逆に、世界に違和感を感じない、世界の変化に気づかない人々には、波長が合わず、うまく伝わらない音楽なのである。だから、大部分の佐野の音楽は、日本社会において主流にフィットしない音楽である。彼の歌う世界は、マジョリティに対しては、意味不明な音楽として映るだろう。 上のような佐野の歌の本質は、種としてはその初期作品にもあったものの、4作目ヴィジターズあたりから、よりはっきりと芽をだし、表に出るようになった。だから、佐野のファンの中にも、3作目までのファンでしかない人がかなりの割合でいる。 世界の変化に傷つ き、抗う人々への呼びかけ、という本質(ないしはテーマ)は、佐野の40年近くの音楽の多く、とりわけ、佐野自身が代表曲としてとりあげる楽曲の中でかなり一貫している。こうした彼の音楽の本質 が鮮明に示されている楽曲の例として、「ジュジュ」(アルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」所収)が挙げられる。 その歌詞はたとえば、こうである。 ♪ジュジュ   ジュジュには何もわからない  世界がこの手をこぼれていくたび 心がちょっと痛むだけさ  ジュジュ   ジュジュとはうまく踊れない  世界はいつも君を振り向かずに  すっと通り過ぎていくだけさ 君がいない この曲の中では、「世界がこの手をこぼれていくたび」あるいは「世界が優しく枯れてみえるとき」と世界の変化に対して、心を痛め、「うまく踊れない」ジュジュに主人公は寄り添い励まそうと呼びかけている。歌の中では、ただ、ひたすらにその呼びかけが(佐野が同じ態度で40年間行ってきたように)繰り返されている。ただ、その呼びかけがうまく機能しないことの、虚しさ、胸の苦しさが同時に歌われる。 佐野の音楽が主流になりにくい特徴の一つは、しばしば、こうしたダブルバインドないしは矛盾を歌の中に込めている点である。込めて...

ギルバート・オサリバン「アローン・アゲイン」

2018/12/4/ 夕方、職場の学校の中、授業の荷物をもって歩いていると、心の中から響いてきた かすかなメロディ。それは、 ギルバート・オサリバンのアローン・アゲイン。 ときどきこんなふうに、ふとしたときに音楽が自動再生されてくるときがある。 今日は、オサリバンのアローン・アゲインが聴こえる、そういう 場面だったのだ。 この曲は、ロック音楽の中で、最もメロディが美しいものの一つだろう。 せつなく、流れるように、そして心に沁みる。 一度だけ和訳の歌詞を読んだのだが、孤独な少年を主人公にした とても寂しい歌詞だったのを覚えている。 和訳を意識せず聞いた方が、メロディの美しさ、それにのってくる ところどころ韻をふんだ歌詞、その英語の美しさそのものを味わえるような気がする。 それは、英語が苦手な日本人だからこそ、味わえる楽しさだと思う。 歌詞の意味を部分的に感じながら、音で聴く聞き方である。 外国人が、日本の和歌や古文の美しさを、音できいて感じるように。 僕が中学生の時だったか、このメロディがタバコのCMかなにかで流れて、 そのメロディが映像とともに僕の心の琴線にふれた。 「なんてきれいな歌だろう」 メロディも、歌声もせつないかんじだが、素敵だった。 次に、そのCMが放映されるのを待ち、しばらくしてようやく、 CMの映像の片隅に表示されている言葉から、アーティストの 名前を知った。ギルバート・オサリバン、なんて変わった名前だろう。 そのベストアルバムのCDをレンタルしてきて、聞いた。 一曲目にいきなりその曲、アローン・アゲイン(ナチュラリー) があった。歌詞の意味を知ったのもその時だ。 そのあと(というのは、冒頭の教室にむかって歩いていた時のあとだ) 僕は、おもむろに教室のコンソールにパソコンを接続し、インターネットの あるサイトから、アローン・アゲインを適度な音量で流した。 なにくわぬ顔をして...。 みんなにも聴いてほしい。 Alone Again, Naturally.... 素敵な曲だ。

佐野元春「君を探している」①(編集中)

「君を探している」という歌も心に残っている歌です。 私が中学生のころ、2枚目に買った佐野元春のアルバムは、「ハートランド」というライブアルバムでした。このアルバムを通して、元春の80年代の名曲の多くにふれる機会をもちました。 「君を探している」は、このアルバムの中で3番目の曲で、「ワイルドハーツ」の歌い終わりから、急に元春がカウントをとって始まります。このつながりは印象的でした。時代としては、「ワイルドハーツ」のほうが数年後にできた曲なのですが、そこから遡るかたちになりますが、そうしたタイムスリップよりも、私が感じたのは、これら2曲が描き出す風景や心象の「つながり」のようなものでした。 この2曲を原曲で聞くと、確かにかなりのタイムラグを感じます。「ワイルドハーツ」が様々な意味で、よりロックミュージシャンとして経験と見聞を積んだ洗練された音楽に聞こえます。しかし、通底する精神は同じであるとともに、ライブにおいては、いずれもバンドである「ハートランド」のライブサウンドに変化しています。ですので、特に「君を探している」の古めかしさは全く感じさせないのです。これは、「ハートランド化」と呼びたいような現象です。 さて、「君を探している」は実に不思議な曲、元春でなければ表現できないであろう、言葉とメロディによって編まれたナンバーです。聴く人によっては、「なんだこれは」と無茶苦茶な曲に聞こえるかもしれません。 (以下、書きかけ)

佐野元春「ガラスのジェネレーション」

このブログでは、主に佐野元春の曲のことを書こうと思っているのですが、一番最初に何を書きたいかと考えた時、それはまず「ガラスのジェネレーション」のことでした。 「ガラスのジェネレーション」は昔から好きな曲ですが、年月がたっても聴き飽きない曲です。時々間をあけて聴くと、そのたびに元気をもらえます。 80年代の半ば以降、元春のライブではしばらく歌われない時期もあったそうですが、様々なライブバージョンがあります。1980年代半ばの横浜スタジアムミーティングでは、ピアノ伴奏によるスローバージョンなどもありますが、私にとって、一番エネルギッシュで心に響いたのは、ハートランド解散ライブ「ライブ・ホー!」における演奏です。数万人の観衆を前に、「Hello City Lights!」のところで手を振る元春、転調後の最後のパートで力強く「つまらない大人になりたくない」と叫ぶ元春の歌には心が震えます。元春のライブ演奏の中でも、最もパワフルなワンシーンだったのではないかと(勝手に)思っています。 この曲から受け取るメッセージは、他の元春の楽曲と同様、一人一人異なるでしょう。色々な受け取り方がありますが、私には、この曲は、社会の変革を求め、理想を追求する若者たちの運動の消失を背景にした曲のように思えます。元春が少年時代を送った1970年代、大学で学生運動などが激しく起こり、元春はボブ・ディランの曲などを聞きながら、「本当に社会が大きく変わるかもしれない」と感じていたといいます。 しかし、そうした社会の熱気が冷める中、社会の変革を求める理想主義者たちは、人々の「連帯」が衰退する中で孤立化していったように思います。そして、その傾向は現在まで続いていきます。理想を抱く者は、「ひとりぼっち」の寂しさを味わいながら孤独に闘いつづけなければならなくなりました。「さよならレボリューション」という言葉はそのように聞こえます。 (*脱線になりますが、この「ひとりぼっち」は、夏目漱石の小説「こころ」において、「先生」が「私」に書いた手紙の中の言葉、「自由と独立と己とに充た現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」に重なるところがあります。) 主人公は、そのように理想や社会変革の夢を描きながらも、そうした理想や夢がいずれ滅びさる運命を知りつつも、「He...